教室関係コラム

2014.11.11

追悼:三橋先生との熱い時代

追悼:三橋先生との熱い時代

大阪大学大学院医学系研究科
情報統合医学皮膚科学
教授 片山一朗

 東京医大教授三橋善比古先生が10月18日、逝去された。謹んで彼の冥福を祈るとともに、彼が我々に残してくれた素晴らしい宝物を振り返り、彼が私個人だけではなく、皮膚科学会にとり、いかにかけがえのない人であったかを再認識した。
 彼とは1971年に北大の医学部で同じクラスになったことから付き合いが始まった。今、思いかえしても、私より1歳年上の彼は随分大人に見えた。その後、コンパなどで親しく話しをするようになり、彼がTN大を1年で退学し、北大を再受験し、医学部に来た事や、実家が大きなリンゴ農園であること、ギター、チェロ、尺八など楽器演奏が得意なこと、落語に詳しい事、全国に吹き荒れた学生運動の嵐が収束に向かおうとしていた時代、日本がどこに向かおうとしているのかなど、私が知らない世界をたくさん教えてくれたことを思いだす。
 卒業間近には、国家試験の勉強会を近くの喫茶店でよくやったが、そのあと4人ゲームやススキノに移動し、遅く迄議論したことも懐かしい思い出である。私自身、皮膚科医を選択したのは、当時札幌鉄道病院の皮膚科部長であった、T先生のポリクリで全身疾患としての皮膚科の面白さを教えて頂いた事が大きいが、同じような感性を三橋先生も持っておられ、皮膚疾患に関しても良く議論した事が決め手になったのかと今思う次第である。
 皮膚科医になってからも、多くの学会で会うと、良く近くの飲み屋に移動し、議論した。今でも良く覚えているのは、1986年当時北里大学に移動し、西山茂夫先生のもとで、膠原病疾患の患者をたくさん見せて頂く機会があった。彼とも当然、SLEや皮膚筋炎の発疹や病因論を良く議論した。その中で、ゴットロン徴候に話が及び、チューリッヒ大学留学時Schnyder教授がGottron signは前腕尺側の紅斑といわれたそうである。Gottronの原著はなく彼の「Gottron und Schönfel」の教本には指関節背面と指背に見られる石膏ないし陶器色の萎縮斑との記載があるが、いわゆるゴットロン紅斑としては別に記載があることを教えて頂いた。後日、皮膚科の臨床(3 に「Gottronのsignとはこれのことかと,Gottron言い」という川柳を書いておられた。また当時SCLE、シェーグレン症候群、自己免疫性環状紅斑の違いを良く議論したが、私がなぜ紅斑は環状になるのかという議論で発疹の成り立ちに関して、多いに盛り上がった。彼はチューリッヒ大学でSchnyder教授のもとで表皮水疱症や角化症などの研究を進められ、皮膚科における臨床遺伝学の第一人者になられたが.皮膚の発疹学へのこだわりは強く、皮膚病診療の編集委員になられても、多くの興味ある皮膚疾患の報告の中で、発疹の成因論を彼独自の感性と広い知識で料理し、我々に届けてくれた。
参考として彼がこだわったDermadromeに関する総説を皮膚病診療「西岡清編集長」に許可を頂き、添付(1 させて頂く。また彼が皮膚病診療に寄稿した巻頭言(2 もあわせて読んで頂ければと思う。彼の皮膚病に対する熱い思いや患者、弱者、若い皮膚科医へのメッセージがひしひしと心に伝わってくる。
 今回の早すぎる逝去は本当に無念と言わざるを得ないが、その中で彼の看病を最後迄努められた奥様と終始彼を支えて頂いた坪井良治教授には心よりお礼を申し上げ、お別れの言葉としたい。

※1皮膚病診療:30(6),2008~36(7),2014 「editorial」
※2皮膚病診療:31(7);795~798, 2009 展望「デルマドロームの概念」
※3皮膚臨床:31(7),833~834,1989 「Gottronのsign」

合掌 2014. 11.11日
大阪大学皮膚科教授 片山一朗

1986年6月 彼がチーリッヒ大学留学時(ESDR,SID合同国際研究皮膚科学会:ジュネーブ、レマン湖でのクルージング時)

1986年6月 彼がチーリッヒ大学留学時(ESDR,SID合同国際研究皮膚科学会:ジュネーブにて)。左より、増澤幹男先生(当時:北里大学皮膚科講師)、片山、三橋、西岡清東京医科歯科大学名誉教授(当時:北里大学皮膚科助教授)

1993年皮膚脈管膠原病研究会(福島にて)
岩月啓氏現岡山大学教授(当時福島医大助教授)
Zhang JZ現北京大学皮膚科教授(当時福島医大大学院)

大阪大学大学院医学系研究科教授 片山一朗
平成26年11月11日掲載

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