教室関係コラム

2015.01.05

2015年を迎えて:「葆光」―無心の知

2015年を迎えて:「葆光」―無心の知

大阪大学大学院医学系研究科
情報統合医学皮膚科学
教授 片山一朗

21世紀も、はや15年目となる2015年の新春を迎え、皆さん新たな気持ちで年頭の目標をスタートさせておられるかと思います。
 私も、2004年に大阪大学に着任し、今年3月で在任期間が11年となります。私自身一つの施設に10年以上在籍した経験はなく、長崎大学の7年8ヶ月が一番長く勤務した大学になります。昨年の年末の同門会でも挨拶させて頂きましたが、10年以上の長期間、同じ施設にいますと、どうしてもその場に安住し、目の前の目標を達成する事のみに思考、行動が向かい、長期的な展望が描けなくなってきます、また組織論的にも色々と修理が必要な場所が出てきます。結果的に組織の衰退につながることが起こりやすくなります。

私の教授室に「遊」という額がかけてあります。これは私が1996年に長崎大学の教授に就任した時に当時の西岡清東京医科歯科大学教授(現名誉教授)から贈られたものです。その時は教授になり、少しはゆっくり考える時間を持てという意味(決して遊べと言う意味ではなく)で西岡清先生が揮毫していただいたかと考え、毎日「遊」の意味を考えながら過ごしてきました。阪大着任後は目の前のことを処理する事で本をじっくり読んだり、美術館巡りをする時間などなかなかありませんでしたが、ここ数年、西岡先生の「遊」にかこつけ、少し自由な時間を持つようにしました。組織を維持するには、少し精神的な余裕が必要であり、それを〔遊び「と呼ぶと言い聞かせ、見聞を広げるようにしました。そんなおり、東京出張で東京駅を歩いていた時に何気なくみた美術展の案内が目に入りました「没後50年・大回顧 板谷波山の夢みたもの ―〈至福〉の近代日本陶芸板谷波山展 出光美術館」。私自身、絵を見るのは好きですが、陶芸の世界は全くの素人でしたが、何かそのポスターが手招きしているようで、そのまま出光美術館迄歩いて行き、入館してしまいました。そこで目にしたのは初めて見るのになぜか既視感のある、そしてオーラを発する波山の作品群でした。なかでも、いくつかの天目茶碗と朝陽磁鶴首花瓶(左写真)など偶然(?)、器に無限の宇宙が浮かび上がった(?)作品が深く私の心をとらえました。そして解説書で彼が葆光釉という新しい分野を開拓したひとであることを知りました。この「葆光」という言葉は荘子の斉物論篇にあり、以下のような記述があります。

「真の道は概念で把握できない。真の認識は言葉で表現できない。真の愛には愛するという意識を伴わない。(中略);愛は特定の対象に止まるとき、愛ではなくなる。つまり、人間にとって最高の知とは、知の限界を悟ることだと言える。それにしても、この「不知の知」を体得することは、なんという至難の業であろうか。もしこれを体得できたとしたら、その知は無尽蔵な天府「天の庫」にたとえることができよう。いっさいを受容し、事物とともに推移して、しかもなぜそうなるのか意識しない、これこそ、「葆光」―無心の知なのである(岸陽子訳)。」すなわち、すべてを悟った人から自然に湧き出てくる光、知恵、考えを「葆光」とよぶと私なりに理解しました。波山の葆光彩磁の作品群から隠しても、閉じ込めても、自然と湧き出てくる光、美を「葆光」と呼ぶのでしょう。(右写真は「重文 葆光彩磁珍果文花瓶」住友コレクション泉屋博古館より)古くは孫悟空のお釈迦様の手の宇宙論や新しいホーキンスの宇宙論同様、道は道と認識された時、道でなくなると荘子は言います。全ての事象は有と定義した時からまた無になります。この言葉を知った時、私が10年間悩んできたことに対する答えが見えたような(あくまで)気がしました。私は皮膚という外界(自然界、社会)と内界を物理的に遮る臓器に現れる様々な疾患を相互の作用(外界 ⇄ 内界)を理解して治療することが皮膚科医の仕事と考えてきましたが、自己と非自己という免疫学的な境界や自我と非我(他我)という精神的な境界、随意と不随意などを理解し、治療して行くことも重要なことであることが理解できるようになりました。五感をうまく刺激し、生命の喜びを身体知として意識下で自覚する(矛盾するかもしれません)ことで多くの病気を治すことができるのではと考えています。 
 そして、その先にあるのは荘子(注1)、最近ではケン・ウィルバーのいう境界のない世界(注2)かと思いますし、西岡清先生から頂いた「遊」はまさにそのような世界に到達するための手段あるいは結果であると理解できるようになりました。毎年言ってきました、医学界、社会、そして世界をとりまく多くの問題も「遊」の考え方で生きれば些細なことになるのでしょう。無境界の世界に到達すると、すべて楽に生きて行くことができるということも私には重要な課題です。もちろんこれはあくまで私の個人的な考えであり、若い先生はまず世界の広さと自分の小ささを理解し、そして目の前に立ちふさがる高い壁を乗り越えて頂きたいと思います。そこから先に自分が本来やるべきことが見えてくるのではないかと思います。私も「遊」の世界、そして「無境界」の世界をめざし、今年も皮膚科学を楽しみたいと思います。

注1)荘子:逍遥遊篇より(抜粋)。   
 列子の飛翔はなお風に依存し、彼の超越はなお外に在るものにとらわれている。つまり彼の超越はまだ真に自由自在な絶対の境地には達していないのである。ところが天地の正常さにまかせ自然の変化にうち乗って、終極のない絶対無限の世界に遊ぶ者ともなると、彼はいったい何を頼みとすることがあるだろうか。 彼は、大自然の生成変化の極まりなきがごとく、一切の時間と空間を超えた絶対自由の世界に逍遥するから、何ものにも依存することなく、何ものにも束縛されることがない。

注2)立花隆「宇宙よりの帰還」最終章。エドミッチェルとの対話、司馬遼太郎。「空海の風景」、立花隆、司馬遼太郎「対談集」より抜粋。
 月に行った宇宙飛行士は「神との一体感」など多くの神秘体験を経験し、地球に帰還後は伝道師やESP研究者などになった方もいるそうです。宇宙では精神が澄み渡り、Flicker-flash phenomenonとよばれる一瞬の脳の閃光現象を何度も経験するそうで、それは宇宙からの素粒子が脳の視神経回路に当たる事で生じるのではないかと考えられているそうです。私が今一番魅かれる考え方は「ケン・ウィルバーのいう境界のない世界、「無境界」であり、ミッチェルはそれを宇宙空間で突然湧き上がった神(キリスト教の神ではない)との一体感を感じた世界と述べています。

→出光美術館
http://www.idemitsu.co.jp/museum/index.html

→住友コレクション 泉屋博古館
http://www.sen-oku.or.jp/

大阪大学大学院医学系研究科教授 片山一朗
平成27年1月5日掲載

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