教室関係コラム

2015.06.25

佐野榮春先生の遺されたもの

佐野榮春先生の遺されたもの

大阪大学大学院医学系研究科
情報統合医学皮膚科学
教授 片山一朗

 私どもの恩師である佐野榮春名誉教授は平成27年6月17日夕刻、逝去されました。ご子息の佐野栄紀高知大学教授と奥様の前で、静かに逝かれたそうです。心よりの御冥福を祈り、哀悼の念を表します。
 先生は大正十年のお生まれで、生家は代々、和歌山で医家を営まれており、お名前の榮春は空海の灌頂歴名の中にある僧の名前からとられたとお聞きしました。
昭和一六年に大阪大学医学部に御入学され、昭和十九年御卒業後、海軍軍医見習尉官となられ、朝鮮半島に赴任されました。終戦後昭和二十一年一月に大阪帝国大学副手として谷村忠保教授が主宰されていた皮膚科学教室に戻られ、その後兵庫県立医科大学(現神戸大学)の助教授として転出され、昭和三十七年に神戸医科大学教授に就任されました。神戸大学の頃の話は佐野先生ご自身だけでなく多くの弟子の先生からも良くお聞きしましたが、本当に楽しく、充実した日々を送られたようです。昭和四十九年に大阪大学教授として母校に戻られております。この間多くの弟子を育てられ、日本皮膚科学会も、全国の大学教授の中で、唯お一人、神戸(昭和四十九年)、大阪(昭和五十八年)と二回会頭を務めておられます。先生のご専門は皮膚の結合織の代謝と研究でコラーゲンやムコ多糖の研究では世界的に御高名で、厚生省の研究班長も長く務められました。ワルシャワ大学のヤブロンスカ教授やコペンハーゲン大学のアスボー・ハンゼン教授などとも親交をもたれ、何度か日本にもお招きになっておられます。大阪大学に戻られた頃は、激しかった学生運動の火も衰えつつあった頃ですが、教室運営には非常に苦労されたとの話を後日良くお聞きしました。私は昭和五十二年の入局で、同期は男二人、女二人でしたが久々の新卒医局員ということで、良く学び、良く遊びにも連れて行って頂きました。佐野先生は関西でも有名なオーディオマニアで、先生のご自宅でも良く自慢のセットでクラシック、時に持参したジャズのレコードを聞かせて頂き、美味しいお酒を頂きながら、音楽や研究、臨床の話に時間の経つのを忘れた事が何度もあったことも懐かしい思い出です。先生は今の時代には存在しないような大人の風格があり、哲学者、芸術家、謹厳な研究者、優しい臨床医などいくつもの顔を持っておられましたが、我々にはいつも気さくに声をかけて頂きました。特に通称「二研」と呼ばれた、旧大阪大学付属病院八階にあった皮膚科研究室のActivityは高く、夕方5時位になると佐野先生が顔をだされ、良く議論されていた姿を思いだします。この研究室からは皮膚科、形成、基礎をあわせ10人の教授が誕生したことからも佐野先生の素晴らしいリーダーシップや先見性が推し量られるかと思います。退官後は大阪船員保険病院の院長を務められ、退職後は好きな絵画や音楽を楽しむ毎日で、私が大阪大学に戻ってきてからは良く教授室に寄って頂き、赴任当時の苦労話や国内・海外の友人、知人の研究や人物評など色々なお話を伺う機会があった事も懐かしい思い出です。晩年は高知でお孫さん達と楽しく暮らされ、ここ数年は看護師、介護士の女性達にも愛され、幸せな最晩年だったそうです。私か研修医の時に先生から受けた皮膚疾患の見方、捉え方、科学的な考え方は、今も私の皮膚科学の基礎になっております。先生の描かれた「死海のほとりで-乾癬-」や「鏡の中-血管母斑症候群-」など皮膚疾患をモチーフにした油彩は皮膚科教室に展示し、日々これらの難治疾患の病態を解明し、根本的な原理により癒せる日の来る事を願い、精進の糧にしております。先生の残された大きな遺産は必らず、次の世代に引き継がせて頂きます。今は、安らかにお休み下さい。
合掌

大阪大学大学院医学系研究科教授 片山一朗
平成27(2015)年6月25日

「鏡の中-血管性母斑症」(佐野榮春1995)

「死海のほとりで」(佐野榮春1995)

  • 社団法人日本皮膚科学会
  • 日本皮膚科学会中部支部
  • 日本皮膚科学会大阪地方会